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高座結御子神社

式内「高座結御子(たかくらむすひみこ)神社」は、現在、熱田神宮の境外摂社として名古屋市熱田区高蔵町に鎮座する高座結御子神社がその遺存する神社である。

「結」は、元来、万物を生み出す神霊の働きをいう「産霊」の意と解されている。

「座」の字は、鎌倉時代以後は、「蔵」の字があてられて、高蔵名神、高蔵宮と記されていたが、明治に入って延喜式の表記に基づいて統一された。

【由緒】

当社の創祀は詳らかではないが、この高蔵の地に弥生時代の遺跡である「高蔵貝塚」、古墳時代後期の高蔵古墳群などの豊富な遺跡を残していて、早くから開発されたことが知られていて、当社はここに営まれた高蔵の集落を守護する神として祀られたものと考えられている。

当社、日割御子神社、孫若御子神社の三神は、熱田大神の御子神を祀るとされている。

当社は、熱田七社の一つとされていて、古くから熱田神宮の重要な摂社として祀られてきた。

昭和20年に戦災にあい、尾張造りを残した社殿及び諸施設を焼失したが、昭和38年(1963)に再興の造営がなされた。

【所在】

名古屋市熱田区高蔵9番9号に鎮座する。

熱田区の金山町と熱田とのほぼ中間あたり、JRと名鉄の金山橋駅の南約800mに位置する。

この高蔵の地は、熱田神宮の地点を先端として半島状にのびる熱田台地の上に立地し、境内地の東側は、道路を境に下降していて、古代にはすぐ東は入り江になっていたと思われる。

この傾斜する地点にあるのが「高蔵貝塚」で、比較的広範囲にわたっている。

 

また、境内には、社殿の西側と南側に、これを取り巻いて古墳が散在し、昔は15基以上あったというが、現在では、その大半が無くなり、西と南西に3基、南東に昭和29年(1954)に名古屋大学によって発掘された1号墳の跡が残るのみとなっている。

 

下写真は、4号墳で、服部哲也等著「なごやの古代遺跡を歩く」によると、直径17m、高さ3m。
この古墳は発掘調査はされていないが、1954年に名古屋大学の考古学研究室によって発掘調査された1号墳と同様の横穴式石室の墓室があると推定されている。

1号墳の発掘調査では、墓室は川原石を積み上げて築いた、主室と副室そして外へつながる通路(羨道)からなる複室構造の横穴式石室で、埋葬されていた5体分の人骨や、玉・耳飾・鉄の刀・土器類などの副葬品も発見され、約1400年前のものと推定されている。

古墳の築造技術は、木曽川中流域(一宮・犬山・各務原・可児など)の古墳とよく一致していて、ここで使われている石も木曽川中流域から川を利用して運ばれたものと推定されている。


これら高蔵古墳群は、古墳時代後期、7世紀のものと推定されている。

この地は、農耕のできる土地には恵まれていないが、弥生時代の貝塚群の存在、また、1号墳から鉄製の釣り針の副葬品が見つかっていて、永い期間にわたって漁獲への依存が高かったと推定されている。

この釣り針は5cmを超える大きなもので、サメ釣用と考えられている。

【祭神】 

現在、尾張氏の祖神(2代目)である「高倉下(たかくらじ)神」を祀る。

この神は、「天香語山命」と同一神とされ、神武天皇東征の際に、熊野でその軍隊ともども気を失って倒れてしまったときに、高倉下命が「布都御魂(ふつのみたま)」という刀を献上したところ、神武天皇とその軍隊は目を覚まして進軍することができたことが古事記に記されている。

神社でいただいた栞によると、「高倉下」とは、高倉主(たかくらじ)、すなわち「霊剣を納めてある倉の主」の意であるとのこと。

ただ、古来異説が多く、熱田大神の御子神を祀ると考えられていて、尾張・熱田関係の地誌や社伝等の多くは、日本武尊の第二子の仲哀天皇を祀るとしていて、その他、日本武尊の弟の成務天皇、成務天皇と仲哀天皇の両神を相殿に祀るといわれている。

式内社調査報告の熱田七社の祭神のなかに「成務天皇」があり、なぜだろうと思っていたが、ここ高座結御子神社の祭神が由来していたことがわかった。

境内末社は、鉾取神を祀る「鉾取社」、素戔嗚尊を祀る「新宮社」、宇賀之御魂神を祀る「稲荷社」、御井神を祀る「御井社」がある。


ここの稲荷社は、太閤秀吉が幼き頃、母に手を引かれてお参りしたところから「太閤出世稲荷」と称されて、厚い信仰をうけてきたそうだ。

また、御井社の井戸は、6月1日、7月土用入の「井戸のぞき」と称して、稚児に井戸をのぞかせて、その水をいただくと「虫封じ」になるという信仰がある。


【祭祀】

当社の例祭は6月1日に行われ、虫封じの信仰から子供連れの参拝者が多く、町内から子供獅子がでて賑わいを呈する。

江戸時代には、5月4日の熱田神宮の神輿渡御神事の際には、熱田七社詣と称して当社へも熱田の頭人が参詣した。また、現在熱田神宮で行われている歩射神事は、もとは当社で行われていたといわれている。

【社殿】

昭和20年3月に戦災にあい、本殿はじめ、すべての施設は焼失したが、現在の社殿は昭和36年(1961)に復興に着工、38年5月に竣工した。

元の形態に準じて造営され、本殿(両流造り)・渡廊・祝詞殿・拝殿・直会所・神饌所、願人控所などを連結している。

 

元の社殿は、この地方の建築様式の丹塗りの尾張造りで、正殿、渡殿・釣殿・両袖に廻廊をつけた祭文殿・妻入り形式の拝殿などが直線状に配置されていた。

下図は「尾張名所図会」より。

【参拝記】

2009年12月20日に熱田神宮から断夫山古墳などを巡って、高座結御子神社へも参拝した。

境内は思っていたよりも大きな森と社殿であった。

社務所で、神社の由緒などを書き記した栞をいただき、境内を散策した。

境内地は昭和29年に本殿の背後に公園が造られて縮小されたそうだが、現在でも約3000坪ある。

熱田神宮と同様に楠の巨大なご神木がある。


また、古墳のそばによく見られるという「鹿子の木(カゴノキ)」という木を知ることができた。